目覚めよ、稀勢の里。
春場所、千秋楽。結びの一番でのことだった。白鵬と日馬富士の取り組みは、誰もが呆気にとられてしまい、そしてその論調が怒りを帯びてくるようなものであった。かく言う私もその一人で、ただし相撲のルールとしては何ら逸脱していないその横綱の取り組みと振る舞いに、なんと言っていいのかがわからなかった。ただ確かなことは平成の大横綱と称された白鵬翔ではなく、あくまでもヒール役としてのムンフバト・ダヴァジャルガルとして、生きていくのだという決意表明にも取れた。だからこそ、その後の会見での涙や釈明が響かない。
だから彼が泣こうが喚こうが、私は許さない。
白鵬という横綱はそういう人間だった。そういう結論に至ったのである。当然、横綱だからダメというルールが明文化されておらず、禁止されていないのだから今後とも好きにやればいいと思うが、果たしてそれで相撲がいいのかどうかという本質的な疑問に行き着くのだ。
なぜなら、あなたが野球を見に行ったとしよう。全く知識も何もない状態で、選手に期待するものはなんだろうか。私ならば、投手は三振を打者ならホームランを期待するだろう。
では、ボクシングはどうだろう。フロイド・メイウェザー・ジュニアのような頭脳的な駆け引きよりもマニー・パッキャオのような激しい殴り合いのほうが響くのではないだろうか。
サッカーでは? 守り倒すサッカーより、ガンガンゴールを奪うサッカーがエキサイティングであることは言うまでもない。
私はメイウェザーが好みではあるし、リゴンドウのようなつまらないスタイルは大好きだ。シメオネ率いるアトレティコ・マドリーはとても魅力的であるし、野球だと些細な技術の面まで注目してしまう性分ではある。ここで述べているのは、あくまで一般論であることを断っておきたい。
さて、これを相撲に当てはめてみよう。
相撲の魅力はやはり激しいぶつかり合いと、ガッチリと組んだ「四つ相撲」は醍醐味ではないか。だからこそ、お客さんはすっと横に避ける「変化」は好まないし、それを見るとがっかりしてしまう。そこに魅力がないからだ。
相撲というのはものすごくシンプルな競技である。他の格闘技に見られるようなポイント制ではないし、倒されるか土俵から出てしまえばそれまで。ゆえに変化をすることであっさりと勝利してしまうことだって、できてしまう。簡単なことなのだ。
横綱が安易に変化をしてしまえば、どうだろうか。基本的に横綱は「結びの一番」と呼ばれるだけにお客さんを驚かせなければならない。ましてや千秋楽は誰もが期待する一番なのである。強い者と強い者の戦いであるがゆえにの話である。
競技としては良いものであったとしても、エンターテインメントとしてはどうか? 問題はそこなのである。優勝のかかった試合での塩試合など、誰が見たいと思うものか。
しかし「白鵬」という横綱の皮をかぶったムンフバト・ダヴァジャルガルにはもう期待することはできない。信用など、とうに失墜しているのだ。
そうすると、好角家は期待してはいけないと戒めながらも彼に期待せざるを得なくなってしまう。真っ向勝負を信条としているあの大関に。稀勢の里寛。
私たちは何度も彼に夢を見て、何度も彼には失望した。そして何度も彼のことを期待してしまう。
白鵬の攻めにも負けない馬力、どんな力士でもドンと正面で全て受け取る心意気。日本人横綱が15年以上出ていないということもあるのだろうが、人気面で言えば三横綱のそれを明らかに凌ぐ。誰もが稀勢の里に期待してしまうのだ。間違いなく、時代が時代ならば大横綱になれるだけのポテンシャルがある。そう、ポテンシャルだけは。
そう言われ続けてもう何年経っただろうか。気がつけば、名古屋場所の直前で30歳となる。力士としての寿命も、そうあるわけでは無い。いつまでも彼のことを待っているわけにも行かないのだ。
この場所で、彼は見せなければいけない。白鵬が結果として招いてしまった相撲という競技の危機が見え隠れしている今だからこそ。では、何を?
「稀勢の里寛の相撲」をである。
大阪場所での13勝は、まだ稀勢の里はやれるということを示している。照ノ富士にも、豪栄道にも、そして琴奨菊にも。彼はまだまだ負けていない。日本人力士が約10年ぶりに優勝した春場所。豪栄道と共に躍動した春場所。琴勇輝という期待の若手も出てきた。本来は、遠藤でなければいけなかったのだろうが。
もうそろそろいいだろう。稀勢の里に日本人横綱を期待する声が、もっともっと大きくなっても。日本の国技なのだから日本人がトップ・オブ・トップである方が良いに決まっている。日馬富士や鶴竜がだめというわけでは無い。白鵬がだめだからというわけでは無い。モンゴル人だからだめというわけでは無い。それに張り合うことができるものがトップであることが何よりも大事なのだ。
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