殴るぞ

色々と思いっきり話します。

ギレルモ・リゴンドウ「その美しさを刻め」

 理想のボクシングとは何だろう。しばしば議論されるこの話題。色々あるだろうが、一つ究極の物として定義されるのは「打たれずに打つこと」。そして、それはとても難しいことも多くのファンが理解していることだろう。

 なぜならば「究極」として定義されたそれと、ボクシングの面白さの本質は対極の位置に属しているからだ。現に、打たれずに打つボクシングでフロイド・メイウェザー・ジュニアは大きな批判を浴びているし、アルツロ・ガッティやファン・マヌエル・マルケスといった激しいファイトを得意とするボクサーが常に賞賛を受けるのだから。

 一方で、そのボクシングは決して皆が皆、できるわけでは無いということだ。メイウェザーには優れたディフェンステクニックとスピードをもってして完成されたボクシングを形成していた。それに、パーネル・ウィテカーやロイ・ジョーンズ・ジュニア、ナジーム・ハメドは優れた目と反射神経、そしてボディワークを持っていた。つまり、選ばれし者だけが、その究極の理に足を踏み入れることが許されるのだ。

 ギレルモ・リゴンドウはまさしくその才があるボクサーであり、そして究極にあるエリアに足を踏み入れることを許された王者であるということだ。また、彼もまた「つまらないボクシングをする選手」と認識されていることも事実である。

 一つ言えるのはロイ・ジョーンズハメドも、打たれはしなかったがエキサイティングさを持ったボクサーであったということ。ここで定義したいのは「ボクシングの究極を追い求めること」と「面白さの本質」は必ずしも反比例しないということも明言しておきたい。では、なぜリゴンドウのボクシングはつまらないと言われてしまうのだろうか。

 それには彼が打たれ弱いことが挙げられる。コルドバ戦や天笠戦で見せたパンチへの打たれ弱さ。それはリゴンドウというボクサーの数少なくそして最大の欠点と言えるだろう。その打たれ弱さを露呈しないためには被弾しないこと。

 なぜそこまで被弾を嫌がるのか。その根底には負けないことが挙げられる。キューバから亡命してきた金メダリストは、一度亡命に失敗した身。たった一回の敗戦が、自分自身の人生を大きく狂わせることを良く分かっている。だからこそ、負けることが許されないのだ。

 しかしだ。それでもボクシングにおいてはエキサイティングさが要求される。誰だってボクシングの本質と思うのは激しい打ち合いだ。細やかでテクニカルな技巧よりも、興奮する激しい試合。それの方が遥かに明確で、そしてシンプルだ。格闘技の本質はシンプルさにある。そこに技巧を求めない。

 リゴンドウのボクシングは技巧の極みだ。そしてそれに見合った高額なファイトマネーも要求する。だからこそ、彼はさらに嫌われてしまうのではないだろうか。

 私はふと思った。確かにボクシングにおけるエキサイティングさが、リゴンドウには欠けているのかもしれない。しかし、彼のボクシングは本当につまらないものだろうかと、私は思うのだ。本当につまらなければ、見ることを止めてしまうだろう。

 相手からパンチをもらわない高速のディフェンスとフットワーク、回転力に優れたパンチ。基本的にリゴンドウはジャブとストレートだけだが、実にそれは精確で、何よりも威力がある。先日の防衛戦でも相手選手の顎を骨折させるほどの威力を発揮しており、面白くはないというのが頓珍漢な批判ではないかと思ってしまう。

 正しい批判をすると、「できるのにやらない」。というのが正しいのだろう。しかし、安全運転に見えてその振る舞いはどこか剣術の達人を彷彿とさせる。

 哲学と想いは、決して彼のぶれることのない姿勢を示していて、とても美しい。そう。リゴンドウは、美しい。

 もちろん、ドリアン・フランシスコ戦のように退屈な試合があったことも事実である。エキサイティングさとは対極にある、まるで芝生が育つのをゆっくりと待っているかのような試合だった。

 しかし、それを差し引いたとしても、リゴンドウは美しい。佇まいも一つひとつのパンチも。ラフに行こうが、テクニックで揺さぶろうが。リゴンドウには通用しないのだ。そしてそれは何よりも結果が示している。

 ノニト・ドナイレ戦を見た人もいるだろう。あの試合、僅差の判定以上にリゴンドウがはるかに勝っていたことは言うまでもない。フィリピーノ・フラッシュの前に怖気づいた西岡利晃を軽くあしらい、勇敢に打ちあったホルヘ・アルセをあっさりと屠ったドナイレはラフに行って襲い掛かった以外ではほとんど何もできなかった。そしてそれは試合終了後の顔が証明していた。

 リゴンドウは残り少なくなっているキャリアで、どこまでも究極を追い求めることにしたのかもしれない。その姿はとても美しい。どこか寂しげな表情を浮かべているリゴンドウには何が見えているのだろうか。私はこう思う。きっと、究極とも言える完成されたものなのだ、と。

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