殴るぞ

色々と思いっきり話します。

25年前のユーゴスラビアと25年後の日本

「サッカーは分からない」。

 シュワーボことイビチャ・オシムが呟いた言葉である。1992年5月28日にサッカーユーゴスラビア代表は、国際連合からの制裁を受けて全ての国際大会から追放される形で終焉した。国家としてすでに崩壊していたユーゴが、最期に輝きを保つことができたのはイビチャ・オシムの手腕があったからに他ならないだろう。そのことは千田善さんによって伝えられたことは有名だ。

 そして、オシムは日本代表監督としても情熱を持って取り組んだのだろう。恐らく、あのユーゴスラビア代表を率いていた時と同じように。道半ばであったことは、本当に惜しまれる。

 さて、ヴァイット・ハリルホジッチ日本代表監督の選手選考に批判が集まっている。今回の選出を受けて多くのJリーグを見ているファンから反発を浴びているのだ。

「○○選手を招集しないハリルは無能」、「記者会見が言い訳がましい」という人まで現れ、しまいには「誰が代表監督にふさわしいか」や「もっとJリーグを見ろ」といった批判から、「そんなに呼びたきゃ海外で呼ばれていない選手にすれば良い」など半分投げ槍にハリルホジッチ氏の批判を行うTwitterの「論客」まで出始めている。

 一つ疑問に思う。全てが頓珍漢な論評であったなら、誰が責任を取るのだろうか。そしてそれらが頓珍漢であるとしか思えない。

 冒頭に話したシュワーボは、その頓珍漢な論評を25年前に浴びていた。当時のユーゴスラビアは紛争寸前。チトーに依存した国家は死去後にバランスが崩壊、サッカーにもダイレクトにつながっていた。

 6共和国から構成された連合国家は己の民族主義を抱えており、ユーゴへの帰属意識はとうに失せていたのだろう。国内リーグ戦でサポーター同士の小競り合いは常態化し、代表の選考に対しても他の共和国選手を名指しで批判し、そしてシュワーボも批判された。

 そのような中で記者をあしらい、時には怒り、選出した選手たちを守りチームを一つにして行った。そしてそれは、大胆な行動として出た。

 ワールドカップ本戦でのグループリーグ初戦。西ドイツと対戦することとなったユーゴを率いて「わざと」負けて見せた。「○○を使え」という圧力や声を黙らせるためだったと言われている。

 その後2連勝したユーゴはグループリーグを突破してベスト8まで勝ち進み、アルゼンチンをあと一歩のところまで追い詰める活躍を見せた。

 つまり、シュワーボは外部が口を出すことの抵抗として「わざと負ける」という行為にでたわけだ。無意味であると言い切るために。これは今回の日本代表にも同じようなことが言えるのではないか。

「○○を使え」の○○が招集されないのには必ず理由がある。

 ハリルホジッチ占星術を使うような人物には見えないし、なおかつ大手スポンサーに媚びを売るような性格でないことも、アルジェリア代表監督を始めとして今までのキャリアで明確になっている。

 当然のことだが、試合に出ていない本田や香川の代表招集には理由があるわけだ。単純に考えてガンバ大阪シュールレゲッツェはいないし、浦和レッズにナスリはいない。Jリーグという環境で試合に出ているより、ハイレベルな練習を日常的に行っている海外の選手を招集した方が、時差というリスクを鑑みても勝率は高いと考えるのは、自然だろう。

 本当に実力があるならば呼ばれる。永木亮太が招集されたのは実力が認められたからではないのか。スポンサーの圧力や聖域化という発想をするのは自由だ。しかし、○○選手がなぜ呼ばれないかを考えた時、それは単純に実力なんじゃないのと言いたい。

 だからこそ、パブロフの犬のように批判を挙げてTwitterSNSに書き込むのは、不健全ではないか。もちろん、それは言論の自由ではあるのだから私に差し止める権限はない。しかし、そしてそれを挙げ連ねた上で、ハリルホジッチへの批判をすることは明らかに不毛ではないか。

 何より我々は所詮は素人でしかない。ハリルホジッチはプロだ。

 もちろん自分が応援している選手や「○○選手」が代表で活躍しているのを想像するのは、ファンが持つ最大の特権ではある。

 しかし、素人考えで選出しなかったことを矢鱈と批判するのは明らかに不健全だ。その選考によって、すでに結果が出たなら話は別だが。招集の権限を持っているのは代表監督だ。それを素人が発言して腐すことに一つも良いことはない。

「素人は黙れ」と言いたいわけではない。結果が出なかったことで批判を行うことは大いに結構だが、結果が分からないにも関わらず批判する風潮をおかしいと言いたい。

 厳しい言葉になるが、根本に腐す人物がいて言葉に対して耳を傾けようとしない人がいる限り、日本サッカーの成長はない。「亀田叩き」をしているボクオタたちと、一体全体何が違うのか。否、違わない。

 なぜか。シュワーボが25年前にユーゴで受けてきた痛みと同じことを時空を越えて、同じボスニア人指揮官にしているのだから。

※今回、記事内で出した「〇〇選手」というワードに他意は一切ない。ここで断りを入れさせてもらいたい。

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