殴るぞ

色々と思いっきり話します。

鈴木尚広「逃げるは恥だが役に立つ」

 クライマックスシリーズ、1stステージ。東京ドームで行われた巨人対横浜の試合。代走で出てきた男は、横浜の投手・田中健二朗の牽制球に引っかかってアウトとなった。そして、それが現役最後のプレーとなった。代走のスペシャリスト、鈴木尚広。名だたるバイプレーヤーたちの中でも燦然と輝く一流のバイプレーヤーだった。代打のスペシャリストや守備のスペシャリストは居れど、代走となるとあまり記憶がない。福島の相馬出身である彼は、読売巨人軍に入団した当初はあまりにも無名な選手だった。それもそのはずだ。福島県立相馬高等学校は、決して野球の名門校ではない。

 そんな男が、プロで20年もの間荒波を生き抜いてきた。ケガをしがちな体質と向き合いながら、それでも彼はプロの選手として戦い抜いてきたのだ。いつ呼ばれるか、わからなくても毎試合、ベストを尽くしてきたわけだ。これは、多くの報道によって知られている部分でもある。

 そうして積み上げてきたスタイルは、対戦相手からはひどく嫌がられた。代走として彼が出るだけで、歓声が上がり、守備についているものは動揺する。年齢を重ねるごとに、身体能力は衰えていくが、技術と経験は積み重ねることができる。そして積み重ねてきたものと実績が組み合わさり、彼は唯一無二の存在となったのだ。かつて、落合博満が「顔で野球をする」という表現をテレビの取材で使ったのを思い出した。まさしく鈴木は顔で野球をしていたのだ。プロとしてこれほど名誉なことはないだろう。

 そして、鈴木尚広という選手を畏怖していたということに他ならないわけだ。そんな彼が現役を退く決意を固めた。スポーツ報知の報道では「今年1年、自分の引き際を考えるようになった。もちろん、試合が始まれば頭にはないけど、それ以外では引退の2文字が頭に出てくるようになった。そういう気持ちではプロとしてはダメだと思った」というもの。その心が、まさかクライマックスシリーズのあの場面でスキを作ってしまうことになるとは。勝負の世界とは、時に残酷で皮肉なものだ。

 思うと、重量打線と呼ばれていた時期を経験し、暗黒時代を潜り抜けてレギュラーとされて期待された時もあった。しかし、ケガなど様々なことが重なってとうとうレギュラーを掴むことはできなかった。そんな彼は阿部慎之助と同じ学年だ。そして、時として阿部よりも欠かせない存在となった。それは今も変わらないはずだろう。

逃げるは恥だが役に立つ」。新垣結衣さん主演のドラマのタイトルだ。これはハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.」から来ている。このことわざの意味は「自分の戦う場所を選べ」なのだそうだ。

 鈴木は自分の長所を活かすことで、自らの戦う場所と居場所を掴んだ。そのために多くの犠牲を払ってきた。本当だったら、高橋由伸のように活躍したかったかもしれない。イチローのようにヒットが打てて盗塁もできる選手になりたかったのかもしれない。そういう自分のなりたいものを押し殺して、彼は努力を続けた。競争世界であるプロの世界は、常に努力が報われるという保障がない。身体能力だけでならば、彼に勝つことができる選手はごまんといるだろう。

 その中で最後の最後まで、彼は戦う場所を明け渡さなかった。それは彼が20年というプロで積み上げてきた最大にして最高の功績でもある。200盗塁以上を達成してきた選手の中で盗塁成功率が歴代1位であるという実績は、その功績の素晴らしさを裏付けている。

 そして彼は、現役時代誰にも明け渡さなかったその戦う場所を引退という形で明け渡すこととなった。彼がこれからどういう道をたどるかはまだわからないが、いつかきっとユニフォームを身にまとって、類まれなる技術を後世に伝えていくに違いない。かつて、彼が緒方耕一さんから伝授してもらったように。新たな戦う場所が、きっと彼のことを待っている。最も、それはすぐなのかもしれないが。

 今年も多くのベテラン選手たちがユニフォームを脱ぐ。ファンは、かつて活躍していた姿を思い浮かべながら、涙を流して引退を惜しむのだろう。色々な選手がいる中でも、鈴木尚広という男は誰よりも尖がっていた。プロ通算335安打は年間で換算しても大体17安打しか打っていないことになる。しかし、誰もが彼の雄姿を忘れることはないだろう。それこそが私たちが選手である彼にできる、最後の感謝であり敬意だ。

 ひとまず、彼の「現役選手」としての戦いの物語は幕を閉じることとなる。次の物語はコーチか、それとも現場から離れるのか。何せ今日発表されたばかりなのだからまだ分からない。プロ野球が生んだ最高の「技術屋」は、まさに「逃げるは恥だが役に立つ」を字で行く選手だったのだ。だから、いつかまたグラウンドで会うことができることを心から願って、彼の現役生活への感謝の言葉としたいと思う。

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