殴るぞ

色々と思いっきり話します。

メイウェザーvsパッキャオ Pacman(1)~”国の拳”は一度沈む~

 フィリピンのミンダナオ島にあるブキドノン州のキバウェ。のちに人民の王者としてもてはやされることとなるマニー・パッキャオ、本名エマヌエル・ダピドゥラン・パッキャオその人だ。野菜農家の4男として産まれたパッキャオもまた、貧困層の生まれである。一日一食の生活。満足に食事もできない家庭でありながらも育っていった。

 大変生活が困窮していた中で、パッキャオは初等学校6年生の時に母が離婚。初等学校こそ卒業したが、中等学校は中退して働き始める。タバコのバラ売りやパンの販売、花を路上で販売していたという。工場のパートタイマーとして母も働き、野菜を売っているだけでは養うことすらできなかった。そんな中、8歳からボクシングの真似事をしていたパッキャオはしばしば草ボクシング大会に出場をしていたという。少額ながらそこで金を稼いでいたパッキャオはそこに希望を見出したのだろう。14歳にして首都・マニラへと出稼ぎ労働に出ることを決意。そして、戦いの場へ身を置くことを決意する。

 マニラでは路上生活も経験していたというパッキャオ。当時から東南アジア内でも大きな都市として知られていたマニラ。反面、スラム街も多くあり、貧富の差は極めて激しい土地でもあることは語るまでもないだろう。過酷なストリートで身に着けてきた実力を手に、フィリピン代表のナショナルチームに入った。衣食住が保障された生活環境で、ボクシングの実力を積んでいく。アマチュアで60勝4敗という成績を引っ提げて16歳でデビューした。階級はライトフライ級。しかし、試合をするにはあまりにも体重が足りなかったために、ポケットの中に重りを忍ばせて計量したという。しかし、めきめきと実力をつけていったパッキャオは18歳の時にはOPBFタイトルまで獲得し、その才能はすでに一目置かれる存在になった。

 そして、20歳を前にして世界タイトルを獲得。日本でも有名だったユーリ・アルバチャコフからタイトルを獲得したチャッチャイ・ダッチボーイジムからWBC世界フライ級をKOで奪い取る。

 しかし、とんとん拍子で世界最強の選手になれるほど世の中は甘くなかった。メッドグン・3Kバッテリーを迎えて臨んだ2度目の防衛戦で計量オーバーとなり失格。試合を行う前に王座をはく奪されてしまう。当時のパッキャオにハングリーさがなくなっていたと指摘する人物は多い。約束のドタキャンは日常茶飯事。ルイシト・エスピノサを復活させたとされるジョー小泉でさえ「ここまで放蕩三昧では、再起は不可能だ」とさじを投げたほどだという。日頃の不摂生がどれだけ選手に対して不利益を被るのか。多くの逸材であふれている、他の業界を見ていてもそれは明白だろう。

 その後、スーパーバンタム級まで一気に3階級も階級を上げてインターナショナルタイトルも獲得するなど活躍をしていたが、彼の運命を変える出会いが待っていた。現在に至るまでチーフを務めている、フレディ・ローチだ。2001年6月23日。IBF世界スーパーバンタム級タイトルマッチでのこと。2週間前に元王者で挑戦者だったエンリケ・サンチェスの欠場が決まる。急きょ代役として手を挙げたのが、パッキャオだった。

 レーロホノロ・レドワバという名選手を3度も倒して圧勝したパッキャオ。一時代を築くことなく終わろうとしていた世界タイトル獲得経験者。パックマンいう愛称と共に世界一になっていくと、いったい誰が想像しただろうか。パキャオなのかパッキャオなのかパッキアオなのか、それすらわからぬままだったかもしれないのに。