殴るぞ

色々と思いっきり話します。

もし日本に森兄弟がいなかったら

 自業自得というのが、回答だろうか。日本バスケットボールの醜態である。bjリーグへの仕打ちとともに、様々な既得権益争いによってそもそもFIBAが要請していた話し合いすら成り立たなかったような状況だった。大体が、他の団体が和解に奔走している時点で既に腐っていたのかもしれないが。実際のところは興業的にもbjリーグが勝利している状態で、既得権益を抱えている実業団サイドからしてみれば、メンツがないのかもしれない。

 とはいえ、議論したくないならばFIBAからの制裁は当然といっていいだろう。いっそのこと、全く日本と関係ない外からの改革した方がすんなりと行くはずだ。全くそこには既得権益がないからでもある。

 

 そう考えてみると、日本サッカーは非常にいいタイミングでJリーグ化することができたと思う。なぜならば、現状を見るとバスケットボールほどでないにしても協会のゴタゴタというものが目に見えてわかるからだ。そして、プロ化していなければバスケットボールと同じような状況に陥っていても何も不思議ではなかったからだ。

 きっかけと人は大事だ。そこには運命を大きく分岐させるだけの力があるからだ。日本サッカーで言うならば、森兄弟だろう。彼らがいなければ、川淵三郎がやりたい放題やっているだけの協会になっていてもおかしくなかったはずである。弟の孝慈は日本代表の監督であった。当時の代表は今のような待遇ではなくただ「選ばれるだけ」の名誉だけしか得ることができなかった。世界と戦うことができる人材が、実業団というチームに雇われているだけの「サラリーマン」だったのだ。これでは強化することができないと、待遇改善を訴えた。これが、今につながる代表の始まりと言っても良かった。後に浦和レッドダイヤモンズの監督にも就任して、Jリーグの中で最も熱いサポーターがいるクラブとなる礎を築いた(元々浦和がサッカーどころであったこともあるが)。

 一方で兄・健兒はプレーヤーとしての功績は少ないが、三菱養和SCの設立や当時の三菱重工の環境改善に奔走した人物としても知られる。1986FIFAワールドカップの予選敗退や、1987年のソウルオリンピック予選敗退を受けて徐々に道筋を作っていった。機が熟したところで川淵三郎を後継者に据えて、自身は裏方へと奔走する。NHKでの放映権や現在の広告活動の功績は健兒にあるといってもいいだろう。日韓共催ワールドカップの後に川淵との対立が表面化して退任するが、間違いなくJリーグを作り上げた功労者と呼ぶにふさわしい。

 生まれが広島の森兄弟は似島学園を設立した森秀麿の息子である。似島学園は原爆孤児を引き取った養護施設がルーツである。自身が原爆で生き残ったときに戦災孤児が多くいた広島を見て、「これが自分のこれからの使命」と考えたことがきっかけという。教師であった父から多く学ぶことがあったのだろう、森兄弟は「日本サッカーのために」使命を捧げた人であったことは間違いない。

 父子で共通することは一つ。「誰かの為に頑張ろう」という気概だった。バスケットボールはどうだろう。「誰かの為に頑張ろう」と思う人がJBAの幹部の中にいたのだろうか。前述したようにメンツだけで動いていたのだろうか。もしそうであったとしたならば、それはとても悲しいことである。誰かの為に頑張ることでしか、人は何かを成し遂げることなどできないからだ。

 組織の中でコネクションや実行力がある人よりも実は「誰か、あるいは何かの為に犠牲になれる人」がいることはとても大きい。その人がいるだけで、大きな組織になればなるほど一つにまとめ上げることができるからだ。とてつもない体力と気力を強いられるポジションでもある。弟の孝慈は気力を全て振り絞って情熱的にそして人に優しく戦った。2011年に67歳で生涯を終えるまで、懸命に。献花台を設けると、2000人のファンがその死を悼んだという。

 兄の健兒は現在、日本サッカー協会の特別顧問となっている。表舞台に立つことは少ないが、その功労者としての存在はとてつもなく大きい。もし、この二人がいなかったら日本サッカーはどうなっていただろうか。今のバスケ協会のような醜い争いが起こっていたのではないだろうか。誰かの為に頑張ることができる人。森兄弟は日本サッカーを本当の「プロリーグ」にするために奔走した本当の功労者だった。