殴るぞ

色々と思いっきり話します。

巻誠一郎「グラヴィティ」

 ジーコの記者会見で、ポルトガル語なまりで話される言葉を覚えている人は多くいることだろう。最後の最後、呼ばれた名前にどよめきがあったように。巻誠一郎というサッカー選手はこうして多くの人に名を知られるようになったのだ。ジェフユナイテッド千葉で当時監督を務めていたイビチャ・オシム氏によって徹底的に鍛え上げられたCFは、まったく何もできないままドイツの地から去ることとなった。

「利き足は頭」と発言する巻選手。当時日本サッカー協会のキャプテンを務めていた方からは「下手くそ」と言われ、事実それは多くのサポーターが認めていることでもあった。身長は184センチあり、空中戦で競り負けることはない。一方で、テクニックがお世辞にもある選手とは言えず、一人で攻撃を打開できるようなスペシャルな選手では無かった。

 スペシャルな選手でなくても、ジェフのサポーターは彼を愛した。決してあきらめないという心を持っていたから。そして守備をサボらない。チームのためにプレーし、チームの勝利のためにできることをやる。だからこそ、巻誠一郎という選手は多くのサポーターからも慕われ、例え失敗してもサポーターが応援し続けてきた。

 それでも、ジェフユナイテッド千葉というクラブは非情な通告を与えた。結果が出ていないことと、当時志向していたサッカーのスタイルが彼には全く合わなかったこと。そこから鑑みたジェフのフロントが下したのは「戦力外通告」だった。チームから主力選手が相次いで退団した2008年。巻選手がいなければ、恐らくジェフは奇跡の残留を達成するなど夢のまた夢の話だったのではないだろうか。しかし、J2に降格した千葉には彼だけでは解決できない問題が山積してしまっていた。

 当時、mixiが全盛期だった頃に書いていた日記にあったコメントが今でも印象に残っている。ロシアのクラブへ移籍が決まったときのことだった。「実力を勘違いしていますよね♪身の程を知って欲しいです」というニュアンスで書かれていたコメント。私はその人が彼のことをどう考えていたのかは分からない(少なくとも良くは思っていなかったのだろう)。しかし、実力だけ見てコメントしているのだとしたらそれは浅はかではないだろうかと、私は思ったものだ。

 事実ジェフは精神的支柱を失ってしまったばかりに、今日に至るまでJ1昇格をしていないのだから。ヴェルディ移籍後には千葉との対決でゴールを決めたことも記憶に新しい。未だ山積している問題に目を背けたまま、ジェフはJ2を戦う。巻誠一郎という大きな柱を失った代償なのだろう。それだけ、彼の持つ引力はものすごいものがあったのだと今となっては確信を持って言える。

 さて、そんな彼が再び日の目を浴びている。今回の熊本地震による様々な活動についてでだ。現在は地元でプレーする彼は、大地震当日も熊本にいた。大地震によって麻痺した車をグラウンドへと誘導したり、復興支援サイトを立ち上げ、自ら支援物資を運べるよう手筈を整え。まるで全盛期にピッチを走り回っていた時のようなエネルギッシュな動き。絶対あきらめないという心意気。

 巻誠一郎というサッカー選手に根付いている諦めない姿勢は、故郷の復興を強く信じる心となって再び現れた。彼の動きに、皆が連動した。かつて応援していた人たちが。それは彼が今まで獲得してきたタイトルや得点より、そして代表戦というキャリアよりもはるかに大きな価値があり、とても素敵で、綺麗だ。たった一人のサッカー選手とは思えないほどの人望と行動力。彼は今でも多くの人から愛されており、そして支えられているのであるということを私たちに教えてくれる。

 かつて彼の師であるイビチャ・オシム氏はこう語ったことがあるそうだ。

「巻はジダンになれない。だが、ジダンにはないものがある」。もちろん、これはサッカーの話であるし、ニュアンスも異なる。しかし、かつて世界ナンバー1の選手であったジダン氏と比較して彼にないものが巻選手にはある。最後まで走り切る気持ちの強さと献身的な動き。確かに、言われてみるとそんな気もする。その献身的な動きから人が動き、世間が動き、そして今現在、物が動いている。彼の持つ引力はまさに彼の魅力そのもの。近づけば近づくほど、その心にグイグイと引き寄せられていく。だがそれは、どこか心地いい。彼の持つパーソナリティがきっとそうしているに違いない。

 そして、オシム氏はまた別のところでこうも巻選手を評したという。

「巻は政治家になれる」

 当時は何言っているんだかと思っていたジェフのサポーターさんも居たそうだ。10年前に私が言われてもそう言ってしまうだろう。だが、今振り返ってみると「なるほど」と頷くしかないな。本当にそう思うのだ。