殴るぞ

色々と思いっきり話します。

羽生結弦「恐怖」

 もはや我々が、想像し得ないところにいるのだろうか。322.40というフィギュアスケートの採点において、前人未到の点数を叩き出したのだから。ソチオリンピックからまだ1年しか経過していないのだ。それでも、類まれなる表現力とあくなき向上心で世界の頂点へと駆け上がった。

 唯一無二の存在。フィギュアスケートにおいては、もはや彼を世界大会の優勝候補にあげない記者やファンはいないだろう。何よりも、彼はまだ21歳であることが驚きだ。高橋大輔が世界王者になったのが24歳。パトリック・チャンというライバルもいるからこそだが、まだまだ彼は向上していくことができるだろう。

 人間性も素晴らしい。受け答えもはっきりしているし、何よりもインタビューで外さない。イメージ通りのきっちりしたインタビューをするのだ。スケーティング技術への向上心や、演技への挑戦する姿勢も、年下ではあるが尊敬せざるを得ない。

 しかし、どうしても彼からは強い違和感を覚えるのだ。テレビ番組でインタビューを受けているときのことだ。インタビュアーを流し目で見たときの表情に、私は寒気を覚えてしまった。怒りでも悲しみでもない、何やらインタビュアーを哀れんでいるような表情。そして見下しているような目と、顔をしているように見えた。感じてしまった恐ろしさに、ひどい寒気を覚えたほどだ。

 目が笑っているように見えて笑っていない、さながら何かを極めた達人のような佇まい。と、良く言えばそういうことなのだが、悪く言うといつか何かをやらかしてしまうのではないか? という恐怖を感じるのだ。

 羽生は確かにすごくなった。彼と比較対象となるアスリートは、サッカーのリオネル・メッシやテニスプレーヤーのノバク・ジョコヴィッチくらいなもの。当然、他競技と比較するのは当然無理がある。しかしそうでなければ、他のアスリートと比較しても釣り合いが取れない。極めて次元が高く、そして絶対的な存在。他の追随を許さない存在とは、彼のことを指すに違いない。表現力、ジャンプ、スケートの技術。追い求めている次元の高さは、何処までも高く遠く、そして完璧であること。そこには相手が存在していない。孤独との戦い、己との戦いと表現すればよいだろうか。

 それだけ異次元の世界にいる。我々の手の届かないところで生きているような感覚さえ覚えてしまうのだ。そんな羽生が、私は恐ろしくてたまらない。寒気すら感じるのだから。

 フィギュアスケートという競技の性格上、選手は決して相手と対決をするわけではないし、接触をするものでもない。表現力とスケートの技術だけで戦うものであるが故に、ちょっと他の競技とは異なるわけだ。どちらかというと、演劇系統の分野にも組み込まれる。これは、私の感想だが羽生は歌舞伎役者の市川海老蔵と同じ匂いを感じるのだ。つまり演技するという状況に入り込んでしまっていて別の世界からやってきたような違和感があるわけだ。海老蔵はかなり人間臭い上に、トラブルを起こしまくっているが。

 羽生は時折、テレビ番組などでオフショットを見せることもある。その感覚はどこか人間臭いといえば人間臭い。しかしそれすらも計算して演じているような、周囲が望む「羽生結弦」という人格を持っているような。本当の自分を隠している。それはそれでいいのかもしれない。羽生結弦とはフィギュアスケーターであり、テレビに映っている以上は周囲がそれを望んでいるのだから。

 ただいつか何かを起こしてしまうのではないか、と勘ぐってしまう。本当の彼がどんな人間なのかを私は知らない。どんなトラブルを引き起こしてしまうのか。それはわからない。酒のトラブルとは無縁だろうし、薬物にハマるような人間でもない。不必要なビジネスや投資に騙されるような人間でもないだろうし、周囲にも彼の理解者が多い。不祥事の火種は、今のところ見当たらない。

 思い出してみてほしい。リオネル・メッシに脱税疑惑が出たとき、「まさか」と思ったことだろう。かつて白鵬は大相撲の危機を救ったが、今の白鵬はやりたい放題だ。そして、サムエル・ワンジルは、自ら身を崩して命まで落とした。優等生ほどトラブルを起こした時の落差が激しいのだ。私はそうやって、自らの立場を危うくするような生き方を羽生にはして欲しくない。

 彼は今、トッププレーヤーとしてだけでなく自らが追い求める理想の演技を追い求めている。求道者と言い換えることも出来るだろう。一般人と同じ感覚や考えでは、その道を極めることは到底できないのだ。アルベルト・アインシュタインスティーブ・ジョブズが、考え方や生き方が一般人とかけ離れていたことは、説明するまでもない。羽生も彼らと同じような突き抜けた人物なのかもしれない。

 だからこそ心配なのだ。彼が大きな挫折をしたとき。引退をしなければいけなくなったとき。私は怖い。だから願う。どうか、その不安が杞憂で終わりますように、と。