殴るぞ

色々と思いっきり話します。

ギタウ・ダニエルが日大に与えた功罪

 矢沢永吉を愛するケニア人が鶴見から戸塚まで走り抜けて、もうちょうど4年が経過することになる。ギタウ・ダニエルその人である。4年間でごぼう抜きした人数は50人。モグス佐藤悠基とは対極にあるゴツゴツとした汚いランニングフォームでありながらも長い手足を活かした走りで幾度となくチームの出遅れを取り返してきた留学生であった。とはいえ、最初から期待をされていたわけではなかった。何より、チームには先輩留学生のディラング・サイモンがいたからだ。ケニアのガル高校出身の彼はサイモン卒業後のエースとして期待されていたに過ぎなかったのだ。

 ところが、そのサイモンが日大を中退してケニアに帰国してしまう。理由は一切不明。一説には2区区間19位となった箱根で監督の方針に反感を持ったからとも言われている。ともかく、現在は消息も分かっていない。いきなりのサイモンの退学に戸惑いを覚えた人も少なくなかったはずだ。いずれにしても、ダニエルはいきなり駅伝での活躍も期待せざるを得ない状況に追い込まれたのであった。

 しかしどうだろうか。インカレ、全日本駅伝で結果を出したダニエルはその2007年の箱根駅伝からその力を全国に見せつけることとなる。区間賞こそ上野裕一郎に譲ることとなるが、区間2位でまとめると、チームはその後奮起して総合成績2位でフィニッシュする。佐藤悠基竹澤健介らの活躍も印象的でインパクトは薄かったかもしれないが、ダニエルが2位に滑り込む原動力となったことは間違いない。そう、原動力であればいいのだ。

 しかし、日大はその力にやがて「依存」しすぎる形となってしまう。中長距離をこなせる体力とスピードは魅力的で、出ればインカレ上位は確実の彼は次第にチームの中で存在が大きくなりすぎてしまう結果を招いた。翌年の箱根駅伝では15人抜き。なんだか聞こえはいいものの、1区での出遅れがあまりにも大きく響きすぎた結果でもあった。チームは戸塚までで4位まで順位を上げたものの、後続のランナーも今ひとつの結果でかろうじてシードを保つのがやっとという有様。モグスが奮闘した山梨学院大学は6位という結果であったことからも、雲行きが怪しくなって来ているのは確かであった。3年次の20人抜きも、見た目は優れているが要はスタートダッシュで遅れただけ。確かに、そこからシード圏内で順位を保ったまま、粘ってシード権を確保したのだから大したものではある。しかし、それが出雲駅伝と全日本駅伝で優勝した学校としてそれはいいものかどうかという点において疑問視せざるを得ない。

 結果として、最終学年となった駅伝でもごぼう抜きで順位を上げて2区区間賞を獲得する。しかし、例年よりも不調だったこのシーズンは思ったよりもタイム差を広げられない。見る見るうちに他校に追い抜かれていった日大は5区で区間最下位を叩き出し、復路でも7区で区間3位を出した以外見せ場はなく16位と沈んでしまう。学生駅伝3冠を目指していた日大だったが、留学生依存が強まってしまった結果、優勝どころかシードを落とす結果となってしまった。

 この言葉をかけることは、当時頑張っていた日大のメンバーたちには失礼にあたることだろう。だが、敢えて言おう。当時のぼくはこういう結果になることを望んでいた。チームに力が無いわけではなかっただろうが、どうにも「ダニエルがいるからどうにかしてくれる」という雰囲気がチームカラーから伝わってきていたのだ。駅伝はチームスポーツだ。そのような甘い考えのチームを勝たせてくれるほど、神様は甘くない。後輩のガントゥ・ベンジャミンが3年間走った箱根では最下位→予選敗退→15位と出場すらやっとという苦境が続いた。ようやく前大会でシード権を得ることができたが、留学生のキトニーがものすごくいい走りをしたわけではなかった。良くも悪くも一発芸だったところから抜け出すまでに5年以上の時間を要してしまったこととなる。

 留学生は麻薬のようなものだ。もちろん、相乗効果として選手たちの成績が上がるのであれば素晴らしい成果を得たと言えるだろう。しかし、実際にはその結果を得ることなく、最終的に依存する形になってしまったことは駅伝監督の手腕が問われても仕方がないし、部員たちへの怠慢を問われても文句は言えないはずだ。こういう状況になってしまったダニエルに責任はないし、結果を出せなかったからといって他の部員たちが批判されることはナンセンスであることは分かっていても、だ。

 留学生という存在感と依存してしまいそうになるほどの実力。山梨学院がオツオリを起用し始めてからその実力に驚いた一方で、留学生を起用したことで優勝した大学も山梨学院以外にいないことも、また事実なのである。もちろん日大が留学生ランナーを採用しようと思ったのもそれがきっかけなのかもしれない。けれど、それはあくまで奮起を促すための手段であって留学生を使うからといって常にシードが担保されている訳ではない。さらに言えば、ダニエルは当時三島キャンパスで生活していた。日大は多くのキャンパスを持っている。もし、それぞれにキャンパスが異なる状況のまま生活していたのだとしたら。それは必然的にチームがまとまるきっかけを失っていたこととなる。

 ダニエルは強力だった。だが、強力すぎて正しい使い方を誤った。ダニエルのごぼう抜きの記録は皮肉にもそれを証明してしまっていたと言える。