殴るぞ

色々と思いっきり話します。

白鵬よ、目を覚ませ。

 見るに堪えない光景だった。昨日の白鵬-照ノ富士の「ダメ押し」である。既に照ノ富士が土俵から出た時点で相撲としての取り組みは決していた。だが、あえて下してから無理に相手を突き飛ばす。そんな感情的な相撲をとっていた。決して褒められた行動ではない白鵬の振る舞いに、外面の良さだけには見えない本来の彼自身が現れてきているようにも思う。平成の大横綱と呼ばれ、相撲が低迷している状況の中で一人で驚異的なペースで勝利を積み重ねてきた。朝青龍が引退し、日馬富士が出てくるまでの約2年間。彼は本当に横綱として素晴らしい振る舞いをしてきたように思う。八百長問題や朝青龍という問題児と比較しても比較的温厚そうで、先輩力士への敬意をしっかりと表現する。何より余計なことを言わない上に余計な行動をしない白鵬は、大相撲のヒーローだったのだ。

 だが、本来の彼は違うのだろう。むしろ朝青龍と同じ立場にあるといってもいい。モンゴル相撲の選手だった父を持つ朝青龍とロス五輪でレスリングの金メダリストを父に持つ白鵬。モンゴル人の格闘家としての血には決して抗うことはできないのかもしれない。そして、もう一つの可能性。それは彼自身が自分の「衰え」を自覚しているのかもしれない。

 

 一般的に力士としての寿命は32歳が平均と言われている。白鵬は29歳、朝青龍は30歳。貴乃花親方も30歳だった。近年では旭天鵬魁皇のように長く相撲を取る力士も少なくないが、既に7年間43場所という長期にわたる横綱在籍歴は近年でも例を見ないほどの長期にわたっている。トップクラスで相撲を取れる、ましてや結びの一番という役目。面白い相撲を取らねばならないとなると、そのプレッシャーは想像を絶する。尚且つ、トップ・オブ・トップの存在である彼にとって強力なライバルがいないことも更に拍車を掛けていったのではないだろうか。本来は肩を並べなければいけないはずの鶴竜日馬富士も。もっと言えば稀勢の里も。白鵬に対して常に勝利をすることができるわけではない。

 そのような現状が、徐々に彼の心を蝕んでいったのだろうか。彼は孤独だったのだろう。そこに現れたのは同じモンゴルの同胞たち、そして大関たち。彼自身は自分が本当の意味で「負けて」しまうことを恐れながら相撲をとっているのかもしれない。

 

 トップにしか見えない世界というのは、実はある。私は見たことがないが、追いかけるべき背中がそこにはない。その場合、人はどうしていいのかが分からない。何より目標がそこにはないからだ。それでも彼は相撲を取らねばならない。たった一人残された横綱であるから。そして、大相撲の危機を救う顔役だったからだ。彼一人で、大相撲は持っていたようなものであった。そこは評価を忘れていはいけないところであると思う。許されないのは「横綱のダメ押し」だ。衰える恐怖、負ける恐怖があったとしても、白鵬は明日も土俵に立たねばならない。それが具現化されたからなのか。だが決して、相撲はスポーツであって、スポーツではないということをくれぐれも自覚して欲しい。

 相撲は神に捧げる儀式だ。そして、力士は神のお使いだ。横綱とは神に最も近い位置にいる。そんな勝利した横綱が、ダメ押しをするようなことがあれば、神様はどう思うだろうか。どれだけ低迷期に頑張っていても、咎を受けるような相撲を取るような横綱など、誰が応援したいと思うだろうか。

 

 白鵬がいなければ、今の相撲界はないだろう。そしてこれからも白鵬は大横綱として語り継がれていく存在だ。まるでそれを全て否定するかのような立ち居振る舞いの変貌ぶり。昔に戻れとは言わない。だが、名声を築くのは早くても、その名が崩れ落ちていくのはあっという間だ。神などいないと振舞う暴君に誰が付いてこよう思うだろうか。ぼくはそれを危惧してならないのだ。マニー・パッキャオもその振る舞いから評価を地に落とした。ロナウジーニョは自らの不摂生によって母国でもトラブルを起こしているという。清原和博の今の醜態は言うまでもない。名声を得た分だけ、自分をコントロールする術を失えば誰だってそうなるということだ。

 誰かがコントロールしてあげないといけない。それすら求めることができないのであれば、彼がそれを自覚するのを待つしかない。ファンとしてできるのは見守ることだけだろう。そしてそれはぼくも同じだ。だから、言い続けるしかない。

 

白鵬よ、目を覚ませ」と。